電車の窓から見えるたくさんのビル。あのビルの中身はなんだろう。あのビルには何が詰まっているのだろう。そんなことをずっと考えていた。夕日がガラスに反射し、まばゆい光となる。母に手を連れられ、僕はそびえ立つビルの群れに見とれていた。
小学生の頃の、将来の夢は会社員になることだった。どうして会社員になど、なりたがったのだろう。何をする職業なのかはまったくわからないくせに、会社 と、会社員に、憧れていた。サラリーマンという言葉の響きから、スーパーマンやウルトラマンを想像したのかもしれない。スーツという言葉が子供心に変身を 想起させる。大人たちはスーツとネクタイでサラリーマンに変身するのだ。会社員が会社で何をやってるのかはさっぱりわからなかったけど、それが「仕事」な のだと子供心に思っていた。
デパートで靴の販売員をやっていた父親は、正確には会社員ではないのかもしれない。しかし、サラリーをもらっているわけだからやはりサラリーマンなのだろう。だとすれば、やはり会社に雇用されている人間はみな会社員なのかもしれない。
高校時代、会社員にだけはなりたくないと思っていた。サラリーマンを憎んですらいた。スーツを着ては毎日決まった時間に出かけて、決まった時間に帰って くる。満員電車にすし詰めにされて、デスクで居眠りをし、上司に怒られ、居酒屋ではつまらない説教と自慢話を聞かされる。会社員が会社で何をしているのか は、やっぱりわからなかったけど、そんなものは仕事じゃないと思っていた。僕にはもっと、僕にふさわしい、僕にしかできない仕事があるはずだと思ってい た。
そしていま、僕は会社員になった。目覚まし時計に起こされ、テレビを見ながら朝食をとる。スーツに身をつつみ、ネクタイを選ぶ。もちろん何にも変身など しない。いつもの満員電車にゆられながら、会社へとむかう。窓からビルの群れが目に入る。あのビルの中身は、人だった。僕のようなたくさんの会社員たち。 その一人ひとりが重なって、骨組みとなって、ぎゅうぎゅうにつまって、あのビルは立っている。
僕はいまになってようやくわかった。会社員の仕事はまさに会社の一部になることなのだ。
会社は人間がひとりではできない仕事をする。そのためにはたくさんの人がいる。たくさんの人が、すこしずつ仕事をして、大きな仕事を成し遂げる。だか ら、もちろん、会社員の仕事は誰にでもできる。文字を書く。計算をする。物を運ぶ。誰にでもできる仕事の連鎖が、誰にもできない結果を導く。誰にでもでき る仕事をする僕は、もちろん誰でもない。僕がいなくなっても、すぐに誰でもない誰かが僕の仕事を引き継いでくれる。
悲観しているわけではない。歴史の前には、誰もが人類という会社の会社員だ。医者も宗教家も数学者も芸術家も誰も一人で全てを変えることなどできない。 ただ、次の連鎖を生む一員となる。次の者にバトンを受け渡す走者となる。それが何度も何度も繰り返し、加速し、気がつけば遥か彼方に到達する。僕はそんな 会社員の一人であることを誇りに思っている。
ぼくのしょうらいのゆめは、お父さんみたいなサラリーマンになることです。
参観日、作文を朗読する僕を、母と父はどんな顔で見ていたのだろう。
そんなことを誰もいなくなったフロアで僕は考えていた。計算処理は無事に終わった。パソコンの電源を落とす。窓の向こうには、やはりビルがあった。暗闇 に浮かぶビルの群れ。窓が点々と輝いている。その灯りはまだ多くの会社員が存在することを僕に教えてくれる。そのひとつひとつが、長大な時間に浮かぶ、小 さな瞬きに見えた。
セキュリティを作動させた後、誰もいないオフィスを僕は見渡す。
おつかれさまでした。
そっとスイッチを押すと、ビルの灯りは静かに消えた。

